11月3日、今年度の第5回定例講座が、大山コミセンで開かれました。テーマは「武藤家末代三代」です。
いま庄内は「酒井家庄内入部400年」に向け盛り上がっていますが、酒井家が来る以前にこの地を治めていた、武藤氏(大宝寺氏ともいう)を抜きにして歴史は語れません。戦国時代の庄内には特に抜きん出た勢力がなく、群雄が割拠していましたが、中心的な存在だったのが大浦(現在の鶴岡市大山、尾浦ともいう)に城を築いた武藤氏でした。
武藤氏が庄内に入ったのは、遠く鎌倉時代と言われます。
戦国時代後期、武藤義氏(よしうじ)が家督を継ぐと、周辺の土佐林氏らを滅ぼして急に勢力を伸ばしました。
そしていまの庄内地方全体に君臨し、はじめて「庄内」という呼び名を使ったのです。義氏は鳥海山の北、つまり秋田県まで勢力を広げようとしますが、家臣の謀反によって、あえない最期を遂げます。
やがて天正15年(1587年)の争乱で、庄内はいったん最上義光の手に落ちますが、義氏、義興のあとを継いだ義勝はリベンジを誓います。
翌天正16年(1588年)8月、越後の上杉の援軍を得た義勝は、東禅寺氏永らの最上勢と十五里ヶ原で対戦しました。
この戦いは武藤・上杉連合軍の勝利に終り、義勝らはふたたび庄内を手に収めます。まさに戦国時代の庄内の覇権を決める決戦でした。これが「十五里ヶ原の戦い」で、戦場は鶴岡市友江中野のあたりです。大山街道沿いには、今でもひっそりと記念碑が建っています。その後、関ヶ原の戦いのあとで最上は庄内を与えられましたが、元和8年(1622年)に改易されて、庄内は酒井家を迎えることになるのです。
もしも義氏が戦国大名として庄内を治めていたら、山形県の歴史は変わったかも知れません。
とはいっても黒川能の保護に力を入れたり、大山の「いざや巻き」の始まりに関係するなど、後世に影響を残しているのです。講演は柴宏(山口邦雄)氏により、義氏の人物像など、小説と史実を交えてのお話でした。
11月3日の定例講座で武藤氏(大宝寺氏)三代を取り上げましたが、武藤氏の居城となった尾浦城(大浦城)について、あらためて見てみましょう。
尾浦城は大山の西部にある、標高46メートルの太平山を使って築かれた山城でした。現在は一円が大山公園として、市民の散策コースになっています。
本丸跡には三吉神社、西の丸跡は古峯神社が鎮座しています。Googleの写真と公園内の案内図を比べると、位置関係がよく分かります。山の上からは眼下に大山市街や、下池を見下ろし、遠くに月山、鳥海山を望めます。500年前にも武藤氏が、ここから庄内平野を眺めていたのでしょう。
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