5月10日に今年度の第1回定例講座が、大山コミセンで開かれました。
講師は毎年お世話になっている、致道博物館学芸員の菅原義勝さんです。
今回は「戦国期 羽越日本海沿岸の領主層」として、越後の阿賀野川以北の阿賀北衆と、庄内の状況についてのお話でした。
阿賀北衆は強大な上杉氏の影響を受け、何かあったら上杉が仲裁に入る、一方庄内は、それほど上杉の影響はなく、横並びで自治的な体制になっていて、もめ事は話し合いで解決しました。
その中で武藤氏(大宝寺氏)が次第に中心的な存在になり、何かあったら大浦(尾浦)に集まっていました。武藤氏がそのまま権勢を強めていたら、戦国大名にまで成長して、内陸の最上氏に対抗した可能性もあります。
しかし武藤義氏(よしうじ)はその途上で、家臣の謀反にあい自害したので、それ以上武藤の力が強まることなく、その後の庄内は上杉と最上の勢力争いの場となりました。
ここからは勝手な空想ですが・・・
なぜ武藤義氏は家臣に裏切られたのか。
誰が上ということもなく仲良くやっていた庄内で、義氏は人よりも野心が強かったのかも知れません。
たとえば戦国大名になって、最上や上杉を倒すとか、あるいはそれ以上のことを。
実際に義氏は秋田の由利地域にまで、兵を出しています。
まわりから見れば、高望みはせず今までどおりやっていこうや、という中で、義氏は次第にうるさくて邪魔な存在になったのでしょう。
義氏が自害した天正11年(1583年)は、奇しくも信長が倒れた本能寺の変の翌年です。
これも何かの暗合かも知れません。
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